文章は音楽にのって

例の税金問題で名を馳せた茂木健一郎氏は、たまにテレビでみかけると、なんでもやたら脳に結びつけて、解説する。脳科学者であったのかもしれないが、今はテレビタレントに堕したかと思っていたが、ひょんなことから、「脳を活かす勉強法」というのを読んでみたら、これが結構おもしろい。脳の可能性は無限だ。活性化して生き生きとした人生をおくろう、という本。なんだか怪しげ。しかも、脳活性化のためには、ドーパミンを出して、快感を感じさせるように脳を使っていくと良いとか、手や耳や目を総動員して覚えろとか、どこかで聞いたようなことばかりだ。さらに、人は白紙状態でうまれ、能力は生まれつきではないとか、脳の可能性は無限で、生まれた後の脳の使い方によって決まる、などとくると、本当に科学者かといいたくなる。

ところが、恥ずかしながら、読み終わって、「よし、俺もやる気になれば、やれるかも知れない。今日から脳の活性化だ」、といたく感動してしまったのだ(!?)こんな怪しげな言説に簡単にのるなんて、酸いも甘いもわかったはずのオヤジとしては、いささか情けない。しかし、ふしぎとやる気にさせる本である。もっとも、啓発本の常として、興奮が持続している間(せいぜい1週間)くらいしか、実践は続かないのだが。

先日氏の「すべては音楽から生まれる」を読んで、その「ふしぎ」が少し解けたように思った。氏は、「非常に複雑なネットワークが構築された脳内では、休むことのないリズムの発生とビートの融合による、シンフォニーのような現象が常に起きている」ので、「脳の働きは音楽である」といっても良い。「意識と音楽は本質的に似て」いるという。そして、さらに、「ここ数年、私は文章を書く時、意味の伝達に主眼を置いていない。」と言い切る。

「あることを表すために、とりあえず、なんらかの文を書く。それを読んで受ける印象にじっと耳をすます。この部分でこの単語はちょっと違うな、この流れには違和感があるな、といった具合に判断して、手を入れる。言葉を、タイミングとリズムとしてとらえ、音楽としてよりふさわしい表現はないかと模索しているのだ。」

なるほど。脳の働きが音楽と同じということの是非はともかく、文体というものを考えさせられる。エッセイなど、たわいも無いことを書いていて、読ませる文章というものがある。内容ではなく文体という文章がある。例えば内田百輭の随筆。その文体とはどういうものか、という疑問へのひとつの答えである。文章を「音楽」と考えれば、連なった言葉の生み出すリズム、感覚が大切ということになる。もちろん、氏は音楽としての文章を強調していっているのであって、無意味でよいと言っているのではないが、文体のなぞの一端を鮮やかに切り取っている。

論理の部分ではあまり感心しなくとも、「脳を活かす勉強法」の生み出す「音楽」に、私の脳の感覚が大いに反応したということなのだろう。氏の本がベストセラーとなる秘密はここにある。もっとも、ベストセラーになるためには、自分の「脳内音楽」が多くの人々の「脳内音楽」を共振させなければならないはずだが、どうしたらそうなるのかは、依然としてなぞですが。