『放射線と原子力発電所事故についてのできるだけ短くてわかりやすくて正確な解説』

学習院大学理学部の田崎教授が、インターネットに実にわかりやすい解説を書いておられる。中学生以上を念頭においたそうだが、分かりやすいだけではない。教授の現状判断は、良識に満ちたものである。分かっていることと分かっていないことを峻別する、科学的態度に裏打ちされたものだからだろう。ご自身は、放射線「気にしない派」だそうだが、「気にする派」も「気にしない派」もそれぞれ理があるという公平な視点もいい。是非みなさんにも一読していただきたい。以上終わり、でいいのだが、蛇足までに感じたことをいくつか。


わかりやすいという点について
たとえがいい。「シーベルトとかベクレルってなに?」という項目では、イメージのつかみにくい放射線によるダメージを、パンチに例えていて、なるほどと思う。被曝による「確率的影響についての考え方」では、「確率的影響」という、なかなか分かりにくい概念を、商店街の福引きにたとえて、とっつきやすくしている。


科学的態度について
現状をできる限り客観的に把握し、分かっていることと分かっていないことを峻別して判断することが科学的態度である。「後からじわじわ影響が出る場合」のところでは、このように主張されている。


『もちろん、被ばくが少なければ、DNA の傷つき具合も少なくて、ガンになる確率も小さくなる。 どういう具合に小さくなっていくかについていろいろな研究がある。
でも、その答えはちゃんとわかっていない。 そもそもこういうことを調べるためには、理屈をこねたり数式を計算したりするだけじゃダメで、実際に(不幸にして)被ばくしてしまった人がその後どうなったかを追跡調査してデータを集めるしかない。 しかし、被ばくした人の例がそれほど多くないこともあって、被ばくの量が少ないと影響が小さすぎてはっきりとした結論が出せなくなってしまうのだ。』


分からないことについては、慎重に対応という姿勢も科学的である。


『ここまでの「確率の上乗せ」はすべて大人についての話だった。 実は、子供は大人よりも放射線の影響を受けやすいことがわかっている。 体のなかで細胞分裂が活発におきているからだ。
影響がどれくらい大きくなるものか、ぼくには全くわからないが、どうも数倍から十倍くらいなどと言われている。 さらに、子供のあいだ、あるいは若いうちにガンになると人生へのダメージはずっと大きい。 子供については、別格で考えて、大人よりもずっと慎重に被ばくを避けなくてはいけない。』


公平な視点について
確率的影響をどう考えるか、個人の観点と社会の観点、をそれぞれ気にしない派と気にする派の4通りに分けて解説している。


『どの考えもそれなりに筋が通っているので、ぼくとしてはどれを推薦するということはない。 特に、個人としては、自分の趣味とか感じ方とかで、好きな考え方を選んでいいと思う。 』


私は、個人、社会両方「気にしない派」であるが、「気にする派」の気にする自由をとやかくいうべきではない点には、全く同意である。
ただし、と教授は言う。


『政府や地方自治体のように人々を守るべき立場から、個人に【気にしない派】の考えを勧めるのは許されないことだと考えている。 個人には、「気にする自由」があり、また、「気にしない自由」がある。それは政府にとやかく言われることではない。
政府や地方自治体は【気にする派】の人々もなっとくして暮らせるように最大限の努力をしなくてはならない。 だから、政府や地方自治体は【気にする派】にならなくてはいけないとぼくは信じる。』



斬新な視点
「これからどう生活すればいいんだろう?」という項は、小項目の見出しをつなげると自ずから回答となっている。つまり、


「簡単な答えはないと思う」。「気にしない」のもありだと思う」が、「「でも、常識的に考えて・・」はよくないと思う」。なぜなら「やっぱり、今は「ふつうの時」ではない」からだ。


気にしないという立場をとりつつ、気にする派の立場を慮っているのは、「ふつうの時」ではないという認識があるからである。これは重要だ。「気にしない派」であっても、「気にする派」であっても、ともすると意見が先鋭化、過激化するというのは、やはり今が「ふつうの時」でないからなのである。不確実なことが多々ある現状で、一つの態度しか選択できないと思い込むと、自己を正当化するためには、反対意見を過激に叩くということになりがちなのだ。


『ぼくらが経験しているのは世界の歴史に残る悲惨な事故だ。 日本にとっては戦争以来の最大の難関だとぼくは考えている。
だからといって変にパニックになったり大騒ぎしたりする必要はない。でも、逆に、すべてについて冷静で沈着に普段通りにやろうとしなくてもいいんだと思う。』


だから、例えば東京の小学校での水泳授業について、正確なところはよくわからないとしつつ、『不安要素があるんだったら、慎重になってプールは中止っていう学校があっても仕方ない』という。


『来年の夏くらいまでには、いろいろなデータも集まって、どれくらい安全かということがはっきりしているだろう。 それまでは大事をとるというのも一つの選択肢だ。』


教授はこの項を以下の言葉で締めくくる。

『何年か後、いろいろなことが収束した後になってふり返ってみると、けっきょくぼくらは心配しすぎていたということがわかるのかも知れない。というより、そうなってほしいと心から強く願っている。 それでも、「2011 年の夏」は特別な夏であり続けるだろう。 子供たちは、住んでいる場所によっては避難せざるをえなくなり、節電だと言ってクーラーもあまり使えず、プールも中止になり、そして、大人たちが(子供たちを守るために)色々なことを一生懸命に議論していた暑い夏のことをずっと思いだしつづけるにちがいない。』


まったく同感であるとしかいいようがない。