政治的混迷と絵に描いた餅

政治が混迷している。とんでもないどたばた劇を見せられて、いいかげんうんざりだ。不信任案可決が回避されたと思ったら、今度は、いつやめるかを巡ってみにくい言い争い。某都知事は、当面の間というのは、あと2年間の衆議院議員任期のことだと解説したらしいが、管氏のホンネはそんなところだろう。ひと月程度と勝手に理解した方が、おめでたいということだ。


酷いのは、震災の復興をどうすすめていくのか、原発をどうしていくのか、エネルギー政策をどう転換していくのか、といった政策の議論が与野党ともに全くないことだ。態度が傲慢だとか、いかにも子どもじみた感情だけで政局が動いている。かりに管氏がやめて、谷垣氏が総理になったとして、どれだけ違った政策を実施していくのか、きちんと説明したことがあったのか。


それにしても、この人にやってもらいたい、という政治家が誰も見当たらないというのは、どういうわけだろう。政治家の質が低下したのだろうか。池田信夫氏によれば、過去政権をとっていた『自民党にはもともと政策なんかなく、官僚の決めた政策にからむ利権を選挙区に分配するのが政治家の仕事だった。』しかし、『政治が「利益の分配」から「負担の分配」に変わったとき、こうした集金モデルは機能しなくなった』という。つまり、高度成長時代は、利益の誘導だけをやっていればよかった。経済は、右肩あがりで、国民の生活は日々よくなっているから、負担の部分はあまり気にならない。ところが、経済が停滞してくると、誰が負担するかが大問題となってくる。


年金を例にとれば、高度成長時代は人口も増加し、受け取る人に比べて、負担する人が十分多かった。少子化が進むこれからは、誰が年金給付を負担するのかという議論を避けて通ることはできない。若者の負担を大きくするか、給付の削減という形で高齢者の負担とするか、あるいはその両方か、選ばなければならない。どの選択肢を選んでも、誰かが不満だ。利益の分配だけを考えていれば良かった時代はとうに過ぎて、誰もがいやがる負担の分配を考えなければいけない時代になったのである。


池田氏は、『世論を動かす言葉の力』が大切であるとしているが、言葉で説得するためには、相反する利害対立を超えた、日本全体の大きなビジョンを示す必要がある。日本の10年、20年後のあるべき姿を示し、負担もやむなしと思えるよう説得するしかないのである。ところが、そのようなビジョンをもった政治家は全く見当たらないように見える。これは政治家だけの責任なのだろうか。


絵に描いた餅という言葉がある。いくら上手に描かれていても、絵に描いた餅は食べられない。腹の足しになる餅を作ることが大切で、どんな立派なビジョンでも、実現可能性のないものは無意味という考え方だ。これはどうやら日本人の身にしみついているものらしい*1。敗戦後の復興を短期間でやり遂げた背景には、この現実主義があった。しかし、この長所が実は、日本を変革させる上での足かせとなっているのではないか。


敗戦後の復興期は、ともかく先進国においつけ追い越せでやってこれた。目標は具体的に目の前にあり、長期、大局的ビジョンの必要性はほとんどない。官僚は、具体的な目標をもとに政策を立案し、政治家は利益の分配だけに腐心していればよかった。しかし、誰もが納得する目標がなくなった現在、大きなビジョンを提示して、人々を説得していくことが求められているのである。餅を作るだけではなく、美しい餅の絵を描くことにも力を入れなければならない。国民も政治家もまだその準備がない。そんな今の日本を象徴するような政治的混迷である。

*1:例えば、河合隼雄氏も『心の処方箋』でこの点を論じている(「絵に描いた餅は餅より高価なことがある」)