宮崎駿 iPad に怒る

インターネットをサーフィンしていたら、「宮崎駿iPadをこきおろす」という記事に出くわした。スタジオジブリが毎月発行している『熱風』という無料誌の7月号に掲載された、宮崎駿へのインタビュー記事の一部を紹介しているのだが、中身を見たらこれが強烈である。


『宮崎 あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の関心も感動もありません。嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだらけになった時も、ウンザリして来ました。 


宮崎 あのね、誰にでも手に入るものは、たいしたものじゃないという事なんですよ。本当に大切なものは、iナントカじゃ手に入らないんです。 

 一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、そのひとたちとあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。

 あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。 』


宮崎氏は相当怒っておいでのようだ。しかし、正直言って、何を怒っておられるのか、あまりピンとこないのである。インタビュー記事全文を読みたいところであるが、「熱風」はもはや在庫切れであるという。一部を読んだだけで判断することは危険ではあるが、iPadに熱狂した者としては、『自慰行為』といわれて、はいそうですかと引きさがってもいられない。あえて自分なりの考えを述べてみたい。


まず、いわなければならないことは、発言の一部を取り上げてあれこれ云々すべきではなく、真意を探るべきということである。例えば、氏は、『電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、(中略)ウンザリして来ました』とおっしゃるが、iPadで宮崎作品を見る人間だらけになることもやはりウンザリなのか、とか、『誰にでも手に入るものは、たいしたものじゃないという事』なのかもしれないが、宮崎作品は、誰にでも手に入るのではないか、とか。こういったことは、単なる揚げ足取りに過ぎない。(でもいっちゃうのだが)。


氏のおっしゃりたいことは、道具を手に入れることだけで、なにか達成したかのように得意になる浅はかな精神ではだめだということなのだろう。モノを持つことによっては、人間は何も達成していないのだ。モノは、何か人間らしいものを「生産」するための道具にしか過ぎないのに、道具をもつことを生産すること同一視して、なんら恥じることのない倒錯した人々が腹立たしくてならないのだ。


さて、iPad/iMac狂ともいうべき「倒錯的痴態」を露呈した私としては、どう反論すべきか。確かにiPad/iMac を買って大いに喜んだ。友人知人に見せびらかし、ブログで自慢たらしく吹聴もした。今のところ、あれこれいじって遊ぶだけで、特にクリエイティブなことに使用したわけでもない。


しかし、である。ずいぶんと気に入った道具が手に入ったのだ。少しくらい自慢してもいいぢゃないか。


もし問題があるとすれば、iPadを持つことだけで、なにか自分に革命的な変化が起こると錯覚することだろう。


道具は道具に過ぎない。全く同感だ。しかし、いい道具とそうでない道具というものがある。いい包丁を持てば誰もがいい板前になれるということはない。だが、いい板前は、やはりいい包丁を選ぶのである。