上手下手と芸術性 2

2004年、上野の国立西洋美術館マティスの絵画展がありました。「大きな赤い室内」や「ルーマニアのブラウス」、挿絵本「ジャズ」の原画シリーズなど150点ほどの作品が集められ、大変充実した展覧会でした。興味深かったのは、作品自体もさることながら、マティス自身が写したという、制作途上の作品の一連の写真でした。

静物の例では*1、その中の花の位置を変えたり、塗りつぶしたりして、完成までに何度か構図を変えたことが分かります。無造作に描かれたかのように見える作品が、実は「熟慮」と試行錯誤の結果なのです。「東海林さだおのOL」の制作過程は、記憶では、フィルムに残されていたように思います。あのへのへのもへじに近いような目鼻口を描くのに、何度も何度もやり直しをしていました。

『絵とは、あらかじめ画家の頭や心のなかにあった構想(意図あるいは意識)が、単純に絵に翻訳されたものではありません。画家と描かれる対象との対話、あるいは画家と作品との対話など、実際の作画という行為のなかで、ときに画家自身の意識をも超えて生まれてくるものでもあるのです。』とは、展覧会の解説にあった言葉ですが、その通りだろうと思います。

「熟慮」と言いましたが、頭で考えるのではないでしょう。描いていてなんとなくこれは違うと感ずる。だから線をやや斜めにしたり、花の位置を右から左に変えたりする。そうしているうちに、これしかないと思うものができあがる。そういったことではないか。手間をかけないと芸術にならないということではない。簡単に描いたものが大傑作になったという例があるかどうか知りませんが、あってもおかしくはない。大切なことは、「画家自身の意識をも超えて」というところではないかと思います。こういったことは、絵画のみならず、文芸にも言えるのではないか。