注ぎ口から注いでいいのだ

先日の徳利案件の調査報告である。

まず第一に、歴史的毒殺説であるが、これは完全にクロ。文化庁美術工芸課主任文化財調査官(当時)鈴木規夫氏によれば*1、鎌倉・室町時代に酒を注ぐ時に使われていたのは、長い柄のついた金属や木製の器(銚子*2であった。戦国時代には、そもそも、徳利でさしつさされつということはなかったのである。


次に神仏拝礼説であるが、これも間違いといっていいのではないか。

「首の絞まった徳利の形は、瓶子から発展したと考えられる*3」のであるが、徳利は、「酒をはじめ、酢など液体の調味料の買い付けや、穀物の貯蔵に用いる器」であった。「江戸時代前期には、一升から三升入りの大徳利が主流で、直接盃に酒を注ぐための器ではなく、酒は一度銚子に移し替えてから、酒席に持ち出した」のである。

そして、「江戸も後期の天保頃には一、二合入りのいわゆる燗徳利が生まれる。徳利が酒席に直接登場するようになると、さらに形や文様・絵付けに工夫が凝らされ、窯業の発達とあいまって各地の窯でさまざまな徳利が焼かれた」とある。この「燗徳利」というのは、現代の飲み屋で使われている、普通の徳利である。

貯蔵容器としての徳利の口は、注ぎ口のない丸い形がほとんどであったと思われる。「燗徳利」の「形や文様・絵付けに工夫が凝らされ」、注ぎ口がつけられたのだろう。その際に果たして、宝珠の形をなぞらえたのかどうか、である。残念ながら、鈴木氏の解説は、注ぎ口のことも、宝珠のことも、一切触れていない。

可能性は否定できないが、やはり、それまで使われていた、注ぎ口のある「銚子」の形状を真似たと考えるのが自然ではなかろうか。宮大工の松浦氏の宝珠の話は、和歌山の紀三井寺で会った、常滑焼の陶芸家から聞いたものである。宝珠を模して制作した陶芸家もあったのかもしれないが、燗徳利一般のことであったなら、鈴木氏の解説に何も触れられていないのは、明らかにおかしい。


さらに、小笠原流礼法総師範、柴崎直人氏の『小笠原流 日本の礼儀作法・しきたり』*4によれば、「日本酒の酌は、四本の指をそろえて徳利を右手で挟み、左手を下に添えます。男性は注ぎ口を前方に倒すように、女性はすこし内側に倒すようにして注ぐと美しい姿になります」とある。


やはりやりやすいようにやるのが一番なのだ。

*1:『酒器の起源と移り変わり』、別冊太陽「徳利と盃」(1994年4月)に収録、p138

*2:「銚子」は、今では徳利と同じ意味に使われているが、徳利を銚子とよぶようになるのは、明治になってからのこと。本来の「銚子」は、現代では、神社などで、三三九度などの儀式に用いられている。

*3:同p139、以下の引用も同じ

*4:PHP研究所、2008年4月、p104