命だけか惜しいのか

某米系投資銀行に勤務しているという藤沢数稀とかいう人が、「独裁者が追い詰められるという恐怖」と題して、ブログに意見を載せている。リビアカダフィが行っている残虐行為を評し、独裁者は、自己保身のためにはどのようなこともする、従って、北朝鮮や中国の独裁政権が危機にさらされるような場合には、世界的な脅威になるだろう、というのが大まかな論旨だ。


それ自体は、取り立てて云々するほどの結論ではない。毒にも薬にもならない。ひっかかるのは、そのような自己保身は、人間一般に共通のことだという断定である。『誰だって自分の命が一番大切』であるとし、核ミサイルを発射して10億人ほどの人間を殺さないと、自分が殺されるような状況におかれた場合、氏は、『10億人の人類には申し訳ないが、ボタンを押すと思う。あなたもきっと同じことをする』という。


このような極端な想定(妄想)にいちいち目くじらをたてるのは、ばかばかしいとは思う。が、一緒にしないでくれ、といいたい。もちろん私だって、命は惜しい。しかし、ことは、10億人の生命がかかっているのだ。自分の命が大切というだけで、簡単に決断できることではない。激しい葛藤があるはずだ。ないとしたら、よほど想像力が欠けている。


人間は、守るべき価値あるものがあると確信できれば、自分の命を犠牲にすることをいとわないものだ。だからこそ、リビアの人々は、仲間が虐殺され、自分の命が危険にさらされても、カダフィと戦いつづけることを選んでいるのだろう。自己保身だけを考えていたとしたら、そもそも武器を取ってカダフィにたてつこうなどとは思わなかったはずだ。


自己保身の意識がなければ、自分の生存が脅かされ、利他意識がなければ、共同体の存続が、そして共同体に依存する自分自身の生存が、危機に瀕するのである。両方のバランスをとって生きていかなければならない。だから人生は難しい。