「放射能」の恐怖

先週、出張からの帰りにのったバンコクからのフライトは、がらがらであった。ビジネスクラスは、四分の一くらいしか埋まっていない。外国人の姿が見えないところを見ると、福島原発事故のレベルが7にあがったことに恐れをなしたのだろう。乗客が少なくて乗り込む時間がかからないためか、飛行機は定刻に出発し、予定より20分くらい早く到着した。まさか機体が軽くてスピードが速くなったという訳ではないだろうけど。私にとってはいいことづくめだが、航空会社はお気の毒である。


他にも、日本産の魚、野菜を輸入禁止にした国があったり、放射物質に汚染された雨を恐れて、学校を休講にしたりするお隣さんがあったりする。外国ばかりではない。福島からの避難民受け入れに際して放射線測定を要求したり、受け入れ先の学校で、避難してきた子どもが近づいてくると逃げ出す生徒がいるとか。どうかしている。「放射能」に対して、いかに恐怖心が根強いか、今回の事件のおかげで、あらためて気がつかされた。


私も、「放射能」には漠然と怖いものというイメージをもっていた。原発事故のせいで、否応なくあれこれ調べるうちに、むしろ恐怖心はなくなってきた。扱い方を誤ると、大変危険ではある。が、別に疫病のように人にうつるものでもない。それを浴びたらたちどころにガンにかかってしまうといったものでもない。ある程度の放射線は、原発事故以前から毎日浴びていたのである。問題は、浴びる量である。


量が問題なのは、なにも放射線に限らない。紫外線は、浴びすぎれば皮膚がんを引き起こす。目にも良くない。自動車の排気ガスだって、相当量を毎日吸っていれば、よくて気管支炎、悪ければ肺がんだ。福島原発の燃料棒の処理には、これからもかなりの困難が続くだろう。考えるだけでも気がめいる。だからといって、核爆発を起こすだの、チェルノブイリなみの被害を及ぼすなど、ありそうもないことを恐れていても仕方ないのである。


我々は、日々意識はしていなくとも、あらゆる場面で、判断を下すことを迫られている。どうせ誰に入れても大差ないから、市会議員選挙はパス、というのも消極的ではあるにせよ、一つの判断である。誰が市会議員になっても、日常生活がただちに脅かされるということはない。なんとかなるさとたかをくくって、平凡な日常生活を続けていればいいのである。しかし、今回のような事態となると、話が違ってくる。否応なく自主的な判断を強いられるのである。どうしたらいいのだろうか。相手は「放射能」という高度に専門知識の必要な案件である。


声高に、危険を強調する者に同調するというのも、一つの選択だ。最悪の事態を想定するというのは、確かに危機管理の要諦である。しかし、ものには限度というものがある。福島原発が核爆発を起こすという者はいても、そのために日本全土が壊滅状態におちいるから、日本人全員が海外移住せよ、というものはいないだろう。いるかも知れないが、さすがに相手にはされないだろう。では、なにが最悪なのか、それはどうやって判断すればよいのか。


私は、原発や、放射線を過度に恐れる必要はないという立場だ。しかし、それと同時に、私は、自分の判断が絶対的なものとは、決して思ってはいない。自分の判断のよってたつ、いわゆる専門家の人々の意見でも、間違えることがあると思っている。だから、自分の確信を覆すような事実を知ったら、いつでも意見をかえる心構えがある。いまのところ、そういった必要は感じていないだけである。