バンコクにて

バンコクにいる。昨夜成田を発ったが、空港の手荷物検査場は、日本脱出と思われる外国人で、長蛇の列である。原発がこういう状況では仕方ない。しかし、インターネット上では、日本人にも、西に避難することを呼びかけている向きがある。


ツイッターなどを見ていると、対応は、二つに別れると思われる。ひとつは、政府の発表どおり、現在のところ原発から十分距離をとれば、人体に全く影響がないし、今後最悪の事態となっても、チェルノブイリのようにはならない。従って、政府に指定された地域以外の住民は、避難する必要がないというもの。


もう一方には、対極の意見がある。政府の対応は後手後手で、さらに悪いことには、都合の悪い情報を隠している疑いがある。原子力の専門家といっても、推進側の意見では、どうしても偏りがちである。最悪の事態を考えたなら、今のうちにできるだけ遠くに逃げるにしかず、というものである。


私は、どちらをとるかといえば、前者の方である。原子力については、全くの素人であるから、テレビやインターネット上の専門家の意見を参考にするしかない。今のところ、専門家は、東京くらい距離が離れていれば全く問題がないといっている。最悪を想定して、避難しろといっている者は、私と同程度の素人のようだ。


専門家が間違う可能性ももちろんある。しかし、やみくもに素人考えで、ともかく危険を避けたいと行動するのは、専門家の主張を無批判に信じることと同じくらいに危険である。専門家の意見を否定する有力な証拠がない限り、取り敢えず権威と言われる人の意見を取り入れることの方が、過ちはすくないように思われる。大勢が、何となくの不安感から買いだめに走ったおかげで、必要な人に行き渡らなくなってしまっている現状をよく見る必要があるだろう。



すでに東京駅は、関西にのがれる人で混雑しているというが、私は、このまま様子をみるつもりだ。もちろん、事態が急変することはありうるから、いざというときの避難場所を考えてはおきたい。しかし、当面は、事態の推移を冷静に見守るつもりだ。一度に沢山の人々が同じ行動をしては、パニックを引き起こしかねない。ぜひ避けるべきだろう。

計画停電2日目

昨夜寝る直前まで、混雑を避けるべく5時に起き、5時半には電車に乗って出勤、出張準備を迅速に終えたのち、夕方のラッシュアワー前に帰宅しようと考えた。しかし、まてよである。そもそもチケットは、いまやeチケットである。パスポートひとつあればたりる。旅行代理店に持ってきてもらうまでもない。出張資料だけとりにいくのであれば、夜でもいいと、むしろ遅れての出勤を選んだ。


朝6時半に起きてインターネットを見ると、終日半分程度の運行だという。これなら、2〜3時間出勤を遅らせれば大丈夫かと、インターネットで、福島電発をめぐる動きに一喜一憂(というより一気に鬱屈か)する。計画停電のエリアわけでは、私の地域はグループ4と5の両方に入っているという、わけのわからない対応ぶりなのだが、グーグルの計画停電MAPを見たら、第5グループであると明確に分かる。グーグルさまさまだ。東電は、グーグルをコンサルタントとして雇うべきだ。政府もおなじだ。このように、被害状況を視覚的に地図の上でとらえることができたら、復旧活動はもっとはかどるはずだ。


10時過ぎに家をでる。駅前近くの商店街にいくと、なんだか人通りが多い。皆レジ袋を持っている。中には、トイレットペーパーを二袋も抱えている人も入る。見ると今日は、ドラッグストアーにまで人の列ができている。トイレットペーパーを抱えた人は、どう見ても私より年上だ。オイルショックのときの騒ぎはもう記憶にないのだろうか。「愚者は経験に学ぶ。賢者は歴史に学ぶ。」といったのは、ビスマルクだと思うが、経験にすら学べないというのは、どういうことだろう。通りすがりにミニスーパーを見ると、ほとんどの棚が略奪にあったかのように空っぽだ。


幸いなことに、駅に人はまばらだし、すぐ来た電車も立っている人がちょっといる程度。これなら1時間くらい早くても良かったかも知れない。発車してすぐ、車内に風が吹くので見ると、目の前の窓と反対側の窓2つが、上から5センチメートルほど開いている。おそらくこの電車は、混雑の最盛期の出戻り(?)なのだろう。あまりの人ごみの暑さにたまらず窓を開けたものと思われる。やはり出勤を遅らせたのは正解であった。


会社について、あれこれ用事をフルスピードで処理し、支度を終えて、4時過ぎには帰る。九段下では座れたが、渋谷からかなり混み始め、溝ノ口ではラッシュアワーに近くなる。駅に着くと、朝には閉まっていたスーパーが開いているので、風邪で寝込んだかみさんに電話し買い物をする。肉、魚、野菜等は潤沢にあってほっとしたが、牛乳、パンは既に売り切れであった。


どうも、みな反応が過剰なように思える。新潟地震のとき、2週間か3週間だか、傾いた家の前の、地震で飴のようにひん曲がっていた線路の敷地でキャンプし、給水車の前にバケツをもって並んだ経験があるからなのか、この程度で浮き足立つのがばかばかしくてならない。バングラデシュでは、今でも停電のない日の方がめずらしい。


原発は、当初想定以上の問題がおこりそうだが、専門家の意見を聞く限り、特に首都圏の住民が心配するほどではなさそうだ。問題は、復興した後だろう。原発はやめろという世論はたかまるだろうが、何を代わりに使うのだろうか。


最後に、ツイッターで発見した小咄をひとつ;
計画停電に対して各国の反応 アメリカ:停電の時刻に強盗が多発 中国:いつもの事なので気にしない フランス:恋人が愛を語る ドイツ:太陽電池等備えがある 日本:国民の節電により需要予測を下回り停電回避、停電が実施されない事に国民激怒』

計画停電

明日の停電時間が発表された。今日のところは、ごく一部が停電であっただけだ。明日は分からないが、皆が同じような行動をとるならば、需要が今日より増えることはないだろうから、今日とおなじようなものではないか。


困るのは、電車がまともに動かないことである。今朝は、駅に行くと入場を制限された入口に人が列をなしていて、しかも12時以降は運行を停止するという。恐れをなして、出勤をあきらめた。あさってからバングラに出張であるから、明日はなんとしても出勤しなければならない。今のところ、東急は対応を発表していない。全く気が重いことだ。被災者よりは、はるかにましと我慢するしかない。それにしても、なぜ鉄道だけは例外にできないのか。その理由を知りたいのだが、マスコミは誰も聞いてくれない。


昼時に駅前に出かけたら、スーパーの前に列ができていた。かみさんからは、米があったら買ってきてくれと言われたのだが、さがしても無駄とあきらめる。近くのコンビニも、別のスーパーも、のきなみ棚がからである。停電が3時間くらいつづいたところで、たかが知れている。どうして買いだめに走る必要があるのか理解に苦しむ。いずれにせよ我が家は、完全に出遅れだ。1973年のオイルショックのときの、トイレットペーパー買いだめ事件を思い出す。あの時は、1年分くらい買いだめして、後で苦労した人も多かった。別に生産が急激に落ちこんだわけではない。米など余剰米がいくらもあるはずだ。買いだめ騒ぎも、せいぜい1週間程度のことだろう。

東日本巨大地震

被災地では、救援作業が続いており、被害の全容は未だわからないようだが、宮城県警の見通しでは、死者数は、万人単位となりそうだという。恐ろしい被害だ。何かできないかとは思うが、今は自衛隊などプロにまかせるしかない。一般人の出番は、まだまだ先のことだろう。


空前の規模だという。私は、神田錦町のビルの9階にいた。小学校2年のときに新潟地震、1990年には、マニラでバギオ地震を体験しているが、11日の第一波の揺れは、確かにそれらを上回る激しさだった。かなり長く続いたので、恐怖はひとしおだ。まず、第一に頭にのぼったのは、このビルは大丈夫かということだ。それほど新しいビルではないし、細くてたよりなさそうである。つぶれないうちに非常階段で逃げ出そうかとも思ったが、躊躇しているうちに、第一波は収まった。食器棚のコーヒーカップが落ちて壊れたくらいで、天井も壁も特に被害はなさそうであったので、事務所のテレビをつけて、事態の把握に努めたが、東北地方で大きな地震があったということしかわからない。


そのうちに第二波が来た。余震が続く恐れがあるので、揺れの収まるのをまって、非常階段で外に出た。非常階段の壁に少し亀裂が入っているのが不気味である。外では、かなりの人が歩道にたむろしていた。中には、ヘルメットをつけた集団が、皇居の方に歩いていく姿もあったが、おそらく、北の丸公園あたりに避難するものと思われた。余震があるかも知れないので、1〜2時間ほど歩道で様子をうかがったが、ビルが倒壊する恐れもなさそうなので、ビルの他の住民たちは、三々五々事務所に戻っていくようだ。地下鉄は全面ストップということで、復旧を待つべく、事務所に戻ることにした。エレベーターが止まっているので、9階までのぼるのは、結構つらい。


事務所のテレビでしばらく被害状況を見ていたが、なかなか鉄道の復旧ということにならない。何度も余震がくるので、線路の安全確認に手間取っていたのかも知れない。同僚の一人が業を煮やして、6時頃タクシーで帰ろうと提案してきた。残っていた4人で外に出ると、道路は車でびっしり、歩道は、多くの人でごった返している。地下鉄、JRすべて止まっているというのにどこに行くのだろう。自分たちを棚にあげて、聞いてみたくなる。


タクシーを捕まえられるような状況にはないことはすぐ分かったが、あくまでも帰宅にこだわるT氏は、レンタカーを探そうという。人ごみをかきわけかきわけ、ようやく神保町のトヨタレンタカーにつくと、すでに何人かの客がいる。受付の女の子は、ことわりなれた様子で、車はすべて出払っているという。私はあきらめ、もう一人の同僚と事務所に戻って、鉄道の復旧を待つことにし、あくまでタクシーを探すというT氏と別れる。


帰りがけに、開いている中華料理屋を見つけ入るが、満員と言われる。さらに、別の定食屋は、席が空いているのに、予約があってダメと断られる。それならコンビニで弁当を買うかと行ってみると、既に弁当の棚はからっぽである。出遅れてしまったかと、あちこち探してやっとファストフードの海鮮丼屋に入ったが、我々の3人後の客は、もうネタがないと断られていたから、危ないところだったのである。


それから事務所に戻って、テレビを見ながらひたすら鉄道の復旧を待つ。一緒にいたTK氏は、私より遠隔地に住んでいることもあり、翌朝帰ると覚悟を決めた。11時半頃には、地下鉄のほとんどと東急線の全線が運転再開という。再開したといっても、運転速度は遅いということらしいし、帰宅者で、しばらくはめちゃくちゃな混雑であろう。家族と家の安全は、ようやくつながった電話で確認できたので、朝まで待ってもいいと決めた。携帯はソフトバンクを使っているが、TK氏のドコモが7時頃には通じていたのに、11日は、結局通じなかった。どうなっているのだろう。


いすに座ってうとうとしたが、とても眠れるような状態ではない。午前2時頃インターネットを見ると、東急線は通常の速度で運転中という。意を決して帰ることにした。さすがに人はほとんど歩いていないが、車道は相変わらず渋滞している。大手町から半蔵門線にのったが、がらがらであった。家についたのは、4時ちょっと前である。TK氏は、結局朝8時に帰宅したという。


長々と書いたのは、自分の備忘としつつ、今後関東地方で、大地震が起きた場合にどうするかを考えてみたいからである。まず、第一にしなければならないのは、事務所のあるビルの耐震構造のチェックである。どの程度の地震に耐えられるのか。もし大規模な地震は無理ということであれば、引っ越しも検討しなければならないかも知れない。


相当の地震に耐えられるということであれば、地震があっても、揺れが収まるまで机の下などに隠れ、収まってから直ちに外に逃げるのがベストだろう。耐えられないのであれば、もう運を天に任せるしかない。倒壊ということになれば、逃げる暇もないだろう。


第二に、収まってからの対応だが、ビルが安全である限り、食料を早めに調達して、事務所に戻って鉄道や道路の復旧を待つ。復旧には相当の時間がかかるというような被害状況であれば、暗いうちの行動を避け、明るくなってから家をめざす。ビルがとどまれないくらいの被害であれば、近場の避難所に向かって、夜を過ごしたのち、翌日歩いて家をめざす。家が倒壊していたら。。。避難所で、家族と連絡を取り合うしかないだろう。


今回の都心のいわゆる帰宅難民の行動には、疑問がある。都立高校や様々な施設が避難所を提供して、柔軟な対応で結構なのだが、そもそもなぜ自分の仕事場にとどまらなかったのだろう。避難所に比べ、はるかに快適なはずだ。自宅がどうしても心配という人以外は、鉄道が復旧するまで、一晩くらい職場で徹夜してもいいのではないか。

ダボハゼが世界を救う

恐れていたことがついに起こった。この日が必ずくることは、分かっていたはずだ。しかし、いつおこるのか、しかとは分からないことをいいことに、安逸な生活をむさぼっている。そのうちに、確実にその日がやってきて、大きな衝撃を受けるのである。天災は忘れた頃にやってくる。


iPad2のことである。病気療養中のジョブズが、わざわざ病の身をおしての熱演である。33%も薄く、15%も軽くなったという。さらに、地図や衛星画像など細かい画像の表示が早いのだそうだ。結構なことですな。その他内蔵のあたらしいアプリのモロモロがあるそうだが、知りたくない。昼休みに、同僚に悔しい胸の内をうちあけたところ、「ダボハゼみたいにやたら新しいものに飛びつくからそういうことになるの」といたって冷たい返事である。それはその通り。


しかし、である。私のようなダボハゼがいるからこそ、人類の進歩と調和はあるのだ。仮に、大多数の消費者が冷静沈着、企業の販売戦略を見通した上で、最適な時期に最適な製品を買い求めるとしよう。当然iPad 1は見送るはずだ。なぜならば、できたての製品には、いろいろバグがつきものである。使用者の不満/要望をもとに改良したiPad2がいずれ発売されるはずだ。より高い性能で、おそらく値段は据え置きで。であれば、iPad 2を待てばよい。


ところが、大多数が買い控えをするということは、iPad 1が売れないということであるから、アップルは2を作る意欲をなくすのである。iPad 1は自信作であったのに、意外と売れなかった。この市場からは、撤退しようかな、となりかねない。つまり、ダボハゼが多数あって初めて、技術革新が促進され、一代目を見送った冷静沈着な消費者だけでなく、ダボハゼ軍団自身の利益にもなるのだ。


以前聞いたところによると、消費者におけるダボハゼ率の高いのは、断然日本とアメリカで、冷静沈着型消費者の多い欧州では、新製品がなかなか生まれないのだそうだ。ダボハゼ万歳だ。


といいつつ、インターネットを見ていたら、iPad 2のSmart Coverが風呂の蓋にしか見えないという指摘があった。まさにその通り。ザマーミロとちょっと安心(?)したのであった。

命だけか惜しいのか

某米系投資銀行に勤務しているという藤沢数稀とかいう人が、「独裁者が追い詰められるという恐怖」と題して、ブログに意見を載せている。リビアカダフィが行っている残虐行為を評し、独裁者は、自己保身のためにはどのようなこともする、従って、北朝鮮や中国の独裁政権が危機にさらされるような場合には、世界的な脅威になるだろう、というのが大まかな論旨だ。


それ自体は、取り立てて云々するほどの結論ではない。毒にも薬にもならない。ひっかかるのは、そのような自己保身は、人間一般に共通のことだという断定である。『誰だって自分の命が一番大切』であるとし、核ミサイルを発射して10億人ほどの人間を殺さないと、自分が殺されるような状況におかれた場合、氏は、『10億人の人類には申し訳ないが、ボタンを押すと思う。あなたもきっと同じことをする』という。


このような極端な想定(妄想)にいちいち目くじらをたてるのは、ばかばかしいとは思う。が、一緒にしないでくれ、といいたい。もちろん私だって、命は惜しい。しかし、ことは、10億人の生命がかかっているのだ。自分の命が大切というだけで、簡単に決断できることではない。激しい葛藤があるはずだ。ないとしたら、よほど想像力が欠けている。


人間は、守るべき価値あるものがあると確信できれば、自分の命を犠牲にすることをいとわないものだ。だからこそ、リビアの人々は、仲間が虐殺され、自分の命が危険にさらされても、カダフィと戦いつづけることを選んでいるのだろう。自己保身だけを考えていたとしたら、そもそも武器を取ってカダフィにたてつこうなどとは思わなかったはずだ。


自己保身の意識がなければ、自分の生存が脅かされ、利他意識がなければ、共同体の存続が、そして共同体に依存する自分自身の生存が、危機に瀕するのである。両方のバランスをとって生きていかなければならない。だから人生は難しい。

リーダーは不要か

今回のエジプト「革命」を、リーダー不在の新しい形態の革命ととらえる向きがあるタハリール広場に集まったデモ隊が、インターネットを駆使して、リーダーもいないまま、かなりの組織的行動をしていたことから、リーダー不在の社会が可能と言う。


しかし、これはあまりに乱暴な議論である。リーダー不在のデモ隊が、なぜまとまって行動できたかと言えば、ムバラクを追いだすという明確な目的ひとつだけを、みなが共有していたからである。それだけを目的に集まった人たちである。ムバラクを追い出した後のことは、また後で考えればよい。とりあえず、追い落とす。その一点だけを共通の目的としていたから、様々な出自の人々が共闘できたのである。リーダー不在で革命が成就したというのは、お門違いだ。


革命はまだ始まったばかりだ。独裁者を追い出しました。そしてエジプトに平和な、民主的な社会がうまれました。めでたしめでたしとはいかない。革命の最も大切で、もっとも難しいのはこれからである。利害が一致したのは、ムバラク打倒の一点のみ。それ以外の利害は、多種多様である。多様な利害関係を調整して、一つの新しい政治体制を作り上げなければならない。


例えば、外交問題。最重要課題は、おそらく、イスラエルとの関係をどうするかであろう。イスラエル人をパレスチナから即刻叩き出せというものから、アラブの大義はともかく、今まで通りの関係を保つことが、エジプトの真の国益だと信ずるものまで、様々なはずだ。ツイッターで相談して解決する問題ではない。政治とは、結局利害関係の調整なのである。8千万人も人口があれば、利害関係は、非常に錯綜している。


農民からの小麦買い取り価格をあげないと、農民の貧困は緩和できないが、買い取り価格をあげたら、パンの販売価格もあげなければならない。そうなると、都市に住む貧困層の生活が、一層苦しくなる。補助金をだせばよい。そうかもしれない。しかし、そのお金は誰がだすのか。納税者である。甲斐性もない貧困層のために、どうして私が補助をしてやらないといけないのか。そういう不満をもつものも少なくないはずだ。


こういった利害関係を考慮したうえで、最大多数の利益になるような政策を推し進めていくのが、政治家の役割なのだ。そして、エジプトの抱える問題は、今までは、よきにつけあしきにつけ、独裁者が有無を言わさず政策を実行していたのに、これからは、様々な意見を聞きながら、反対者を粘り強く説得して国を引っ張っていくという、難事を行わなければならないことだ。


これがいかに難事であるか、カリスマ的人気を誇ったオバマ大統領が、どれほどの苦境にたたされているかを見れば一目瞭然であろう。そして、エジプトには、オバマほどの人物は、いまのところいないようなのである。